土曜日。クライアント先をまわった後、夕方前に横浜へ。
横浜中華街にて、20数年ぶりの大学同窓会に出席しました。


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1986年入学の横浜国立大学建築学専攻のメンバー。
卒業後20年以上、さまざまな立場となって社会を支えてきた40過ぎの男たち、女たちが集まりました。
若かりし日の想いを懐かしく語り、いろんな「今」を報告しあいます。
はじめは20年以上のブランクを感じながらも、次第に、その顔つきや言ってる内容がちっとも昔と変わらないのに驚きます。
僕たちが学生だった頃、世はまさに「バブル」絶頂時代。
そんな浮かれた空気に翻弄されながら、必死に「何か」に向かっていたころが懐かしい。
そして今、その「浮かれた空気」とは真逆の社会環境に。
でもやっぱり、あのときと同じように「翻弄」されながら、僕たちは必死で何かに向かっている...
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今日の写真は、
大学生当時、その「何か」をぶち破るべく、ゲリラ的におこなわれた仮設建築「ブツつくるぞプロジェクト」です。
発掘されたその記録写真が、昨夜の同窓会で披露されました。(YOU一朗の撮影だ)
小さなきっかけから発生したプロジェクト。
それはいつの間にか沢山のメンバーをまきこみ、大きなムーブメントとなりました。
大学のメインエリアに大きなインスタレーションのような「建築物」をデザインし、自力施工したのです。
そして、メンバーたちの強力なパワーがさらに集積し、飲食サービスやさまざまなパフォーマンスがそこでプレゼンスされ、大きな盛り上がりを果たしました。
ちょっとした「伝説」。
僕らのゲリラ的なこのアクションは、なぜかその後も引き継がれ、建築学専攻の「伝統行事」となり、20年以上たった今では「学生の自主施工による仮設建築」として大学の正式課題にまでなってしまったようです。
不思議な思いがします。
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ところで、このプロジェクトを最初にブチあげたのは、じつは僕でした。
当時のライバルのS君(現在、某ゼネコン設計部の今やエース)に、プロジェクトへの野望を伝えたのが始まり。「一発やってやろうぜ」、と。
今だから明かしますが、
じつはその最初のきっかけは、「劣等感」です。
当時(仮設プロジェクトの少し前)、ある学生参加設計競技に、僕とS君は手を組んで挑戦。無事に一次審査をパスして他大学の優秀な連中があつまる公開決戦の場に乗り込みました。
しかし結果は惨敗。
上位入賞は、まったく叶いませんでした。
上位入賞できなかったことに加えて、審査員先生(当時有名な建築家たち)に僕らの作品への批評を求めたものの、ロクな批評をしてもらえない。まるで相手にされていない感じでした。
一方、上位入賞者たちの多くは、その審査員たちが教授を務める大学の所属でした。
僕らはその上位者たちと審査員方との批評&議論の様子を指をくわえて見ている…
そういう、わりとツラい状況でした。
僕は、審査の不公平さをいうつもりはまるっきり無いです。
むしろ、なんだか他大学を排斥する閉鎖的な印象も否定できないけど、僕たち2人が蚊帳の外に置かれている、彼らのアカデミックな議論の様子に大きな「劣等感」を感じたことを今でもはっきり覚えています。
これは、何とかしなきゃイケナイ…
有能なる東大や東工大のようなアカデミック路線じゃなくて、横浜のいわば「地方大学」の俺たちが一歩前に出られることって何だ?
建築ってのは、「つくること」だ。
じゃあ、作る。とにかく、作るんだ!
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プロジェクトの実行は、過酷を極めました。
製図室を占拠。
一部の者は学科の正規の授業を一時放棄しつつ、何週間も泊まり込み設計作業、徹夜で議論。そして、他研究室の迷惑も省みず大きな音をたてて材料加工、睡眠時間を削って悪天候のなかズブ濡れになって資材を運び、工事を行いました。
僕らは完全に暴走していました。
学校側がストップをかけなかったのが、不思議です。
(たぶん、調整力のある誰かが根回ししてくれたのでしょう)
とてつもないエモーション。
熱意、野望、実行力。
創造性、公共性。
今にして思えば、このプロジェクトの中に僕らの「建築のはじまり」があったのだと思います。
この出来事が僕にとっての「建築」の原点。
たぶんメンバーの皆にとっても、人生の中での重要な出来事であったに違いない。
僕は、この情熱的な出来事を多くの仲間と経験共有できたことを今でも誇りに思います。
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同窓会の幹事役のみんな、本当にお疲れさまでした。
とても素晴らしい会をセッティングしてくれたことに感謝します。
また、やろう。
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(追記)
今回の同窓会で連絡先不明で会えなかった何人かの人たちへ。
もしこのサイトを見ていてくれたら、連絡ください。
次回は、是非。